切り株で休憩

ときどき花を買います

時事と娯楽と

筑前煮をこしらえた。根菜おいしかった。あったかい食べ物が少し恋しくなってきましたね。

そういや「筑前煮」、口に出したら「筑前炊き」と言ってしまう。これは方言かな。

秀吉は、筑前守(ちくぜんのかみ)とか名乗ってるけど九州を治めてたわけではないし、信長の適当な命名だよねえ。ゲーム感覚? などと筑前炊きを食べながら夫と話した。

歴史は面白いね。遠い歴史は。

史実がねじ曲げられてるとしたら別の問題があるものの「お話」になってるぐらいの歴史物は面白い。

移りゆく政治や時事問題は苦手だ。自分ごとと考えなきゃいけないのも分かる、情報はときどき精査するし、選挙も行きますけども、なんだかんだ言って私が時事にかかわれるのは選挙だけしかない。だから、線というより「点」のかかわり。

夫のように、逐一情報を追いかけて一喜一憂すると、私は疲れてしまう。夫は強い人だから大丈夫なんだろう、スポーツ中継も好きだしね。私はスポーツ中継すら時々疲れちゃう。

時事問題や政治はもちろん、スポーツ中継以上に痛みとしんどさが伴う。スリリングだけど私の日課にはならない。したくない。だって、あちらこちらの紛争や事故と隣り合わせ。つらい。

母親をやって、いつまで続くかという「線」の育児期間は経験した。生きるか死ぬかみたいなスリルはもう十分味わったの。

あとの余生は「できあいのお話」を見聞きするのがちょうどいいの。無責任と言わば言え。もう責任は果たしたからいいのだよ。もちろん、強い母親たちは国政にもかかわるのだろうけれど、私には無理なので。

人はできることしかできないな〜ってつくづく思うの。

私はそんなに強くないから。目の前の家事や仕事、近い人たちの世話をして、かかわりあい、助けてもらう。それがありがたい。

そして、身近な娯楽、小説やドラマに笑ったり泣いたりする。普通の庶民なので、そのぐらいがちょうどいいんです。十分です。そのぐらいでいさせて欲しい。